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若葉学習会専修学校報「泉」 理事長随想

若葉学習会専修学校報「泉」 理事長随想
 
 
 
若葉学習会専修学校報「泉」
     理事長随想(最新号)
 
 60年の歴史ある若葉学習会の学校報に、毎月理事長が寄稿している随想。
 最新号をお届けします。「泉」ももうすぐ600号になります。
 当時15歳だったみなさんは、いまおいくつになられているでしょうか。
 
 
2017年4月号(598号) ふたりの母
2017年4月号(598号)
 
  ふたりの母
 
             理事長 吉野恭治
 
 その少年、仮に少年Aと呼んでおくが、坊主頭の元気な男の子だった。若葉に通学を始めた頃、中学1年生だった。負けん気で、分からないときは涙をふきふき問題に向かった。その負けん気が彼を育てたのだと思う。私が彼に気をひかれるようになったのは、おおいにその生い立ちに起因している。弓ヶ浜半島の畑に囲まれた小さな家で、平凡だが少年の父と母の幸せな新婚生活が始まった。母は昭和18年、25歳。父は26歳だった。よくある話だが、その父に召集令状が届いたのは新婚3か月後の事だった。当時の「召集令状」は赤い色をしていたので、「赤紙」と呼ばれた。ある日、陸軍や海軍から軍隊への参加を呼び出されることを言った。指定された日時にその場所へ行かなければ「徴兵拒否」となり「国賊扱い」となる。一族が身分を隠し、名を隠し、知らぬ土地へ深夜移動する、いわゆる「徴兵忌避」はさしずめ「夜逃げ屋本舗」のような行動をしなければならない。「赤紙」に素直に応じて、軍隊に取られてゆくのが普通の日本人の姿だった。少年の父も素直に徴兵に応じ、遠くフィリピンに出征することになった。その頃のフィリピンはすでに敗戦の色濃い頃で、激戦地だった。少年の父は弓ケ浜半島を後にして、2度と帰ってくることはなかった。ただ少年の母は父に出征前にこう告げた。「お腹に赤ちゃんがいるの」。父はそれを聞いてどんなに喜んだことか。しかし少年の目には父が映ることはなかった。相見ることもない父と子、悲惨な戦争の陰でこうした悲劇がごく当たり前に繰り返された。
 私が若葉を始めた頃の生徒の何人かは父の顔を知らなかった。幼くて思い出せない生徒はもっと多かった。父をヒロシマの原爆で失った子もいた。母が被爆者の子もいた。意味もなく残酷な時代だった。
 戦いは終わった。燃えるような決戦の想いは、静かに行き場のない絶望と厳しい生活の毎日に変わっていった。その母と少年はしばらくは婚家にいた。しかし夫の戦死した家にそのまま暮らすことは、決して邪魔にされはしなかったがつらかったのだろう、2歳の少年を連れて母は実家に帰った。母とて働かねばならない。働くには小さな幼児の存在はつらいものがあったと思われた。折から再三再四養子を求められる方があり、少年の母は「自分で育ててもどれだけのことができようか」と考え、少年を里子に出した。「今日からこの人がお父さん、この人がお母さんだよ」と言われて4歳の少年は泣いた。生涯を通じてあれほど悲しかったことはなかったと少年は言う。泣いてばかりいた少年は7日間で母のもとへ返された。母の胸で思い切り泣いたその嬉しさも彼は忘れない。
 母と子はやがて実家を出て、母は製材工場で働いた。私は美輪明宏の「ヨイトマケの歌」を思い浮かべた。働きに働いて母はわが子を育てた。そして同居していた体の弱い家主の女性を助けた。不思議で温かな3人暮らしだった。しかしその女性の再婚と共に、再婚相手の意向で、親子はその家を出ることになった。私は近所の小さな家を紹介して親子2人の新生活はそこで始まった。私はその人を「おばさん」と呼んだ。製材所で働きながら、おばさんはその少年を大学にまで上げた。涙もろさ、人情の厚さ、わが子への献身、どれをとっても私はこれほどの母を知らない。私の子どもたちを可愛がってくれた。見るからに田舎のおばさんだったが、懐かしさがやまない。昨年末かつての少年から一通のはがきが届いた。「母は九十七歳の天寿を全ういたしました」。私は胸をよぎる熱いものを呑み込みながら、その後、息子と嫁、孫に囲まれた暖かだった家庭を思い浮かべ、神の与えられた母への長寿のご褒美に感謝せずにはいられなかった。
 もうひとり、その少年をBと呼ぼう。少年の母は中学校の教師だった。母親は当時すでに離婚されており、そのために親子2人の家族だった。私はその子と高校受験時代に知り合った。少年は父親がいなかったせいもあってか、私にとてもなついてくれた。それは親子に見えるほどだったのかもしれない。よく我が家にも泊まったし、私の意見も聞いてくれた。ただ私の知るもっと以前、幼児の時代から小学校の時代、働く母を持つ少年は、親切な知人宅に預けられ、そこで毎日母の帰りを待った。高学年になると今度はひとりで母を待つことになった。どちらにしても寂しい幼少期だったと思う。母が教師であるがために、生活の上では普通の母子家庭とは異なり、いくらか安定度は高かったと思う。母親は日々の仕事に煩雑を極めながらも、それでも夕餉の支度などに母らしい想いを抱く、ある意味幸せな毎日だったと思う。
 少年を私はよく連れ歩いた。男の親というものを知らなかった少年には、それなりの新鮮な驚きもあったと思う。やがて先生は我が家にも雑談に来られたり、いっしょに「若葉のお母さんの会」で旅行に参加されたりした。そうしたことから私の家内とも大の仲良しになり、このような往来は50年に及ぼうとしていた。その間に一人息子は高校へ進学し、やがて大学へも進んだ。その頃母親は息子と離れ、それぞれが一人暮らしとなった。息子が東京へ出てからも先生との行き来は絶えなかった。家族の一員のように親密なお付き合いをさせていただいた。毎週1回、我が家での夕食会、妻は1週間考えた献立で歓待した。母親とか、先生とかではなく、妻の旧知の友人のごとく喜び、美味しがり、楽しく歓談された。50年は普通の友人でもいささかに長い交友と思う。
 東京に出た息子は、大学卒業後結婚した。我々夫婦は仲人をさせていただいた。かつての少年は、いまや若きビジネスマンになろうとしていた。大人になっても私はわが子に教えるように、人との関係、仕事の対応、人生の選択などに助言を怠らなかった。
 少年の母は、婚家を出て60年近く、すべての日々が少年のためにあった。母ひとりの女手で、息子を立派に育て上げることが何よりの思い入れであり、人生の目標であった。時には上京して「まあ、洗濯物のヤマ!」と電話で話されながら、それなりに嬉しそうだった。息子の役に立つことへの喜びである。
 息子が大学へ合格した時、彼の父親という人から私は電話を受けた。「息子に合格祝いを渡したい」と。少年はこういった。「ぼくには父親はありません」。私はこの話を母親に伝えた。もしこの時少年が父からのプレゼントを喜んで受け取ったとしたら、母親は心のどこかで落胆したと思う。恨みやつらみということではなく、母だけで十分という少年の想いが、少年から母への最大のプレゼントではなかったか。「子どもに迷惑をかけないで死にたい」という願いのまま、わずか2日ばかりの軽い症状の後急死された。87歳だった。子どものための生涯だった。潔い生き方だったと思う。
 こうして私の周りから相次いで昭和の母が去った。残された私はまだあきらめきれないでいる。
 
 
             
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