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若葉学習会専修学校報「泉」 理事長随想

若葉学習会専修学校報「泉」 理事長随想
 
 
 
若葉学習会専修学校報「泉」
     理事長随想(最新号)
 
 60年の歴史ある若葉学習会の学校報に、毎月理事長が寄稿している随想。
 最新号をお届けします。「泉」ももうすぐ600号になります。
 当時15歳だったみなさんは、いまおいくつになられているでしょうか。
 
 
2017年7月号(601号) 50歳、こんにちは。~「泉」600号の閑話~

2017年7月号(600号)
 
50歳、こんにちは。

~「泉」600号の閑話~

 

  理事長 吉野恭治
 
 
 つい最近、学校の広報紙「泉」が600号を迎えた。当然だが1年12号刊行だから、50年に及ぶことになる。毎月書いてきた随想は脈絡もないほど雑多だが、それでも500編程度は書いたのではないか。保存ファイルには「泉」1号から残されているが、そのファイルが何冊にもなっている。初刊から何年後かにこれは整理しておくべきだと考え、発行月順にファイルしたら、不注意からか欠落した号が3部ばかりあった。若くて多用極まりない頃である。気にも留めないで放置しておいて、それが紛失したのだろう。あきらめようとしたが、「泉」紙上で「何年も前の号だが、次の号をお持ちの方は貸せていただけませんか」と呼びかけた。するとある生徒の保護者の方がお持ちで生徒を通じてお届けくださった。通学中だった生徒の兄が通学していた当時のものを丁寧に保管いただいていたようで、大いに感謝した。
 その逆の事例もある。中学浪人のクラスが若葉にあった時代、毎年年度末の2月号くらいに「中学浪人と呼ばれたけれど」というタイトルで、何名かの生徒の作文を掲載していた。それは長い間続いた「継続企画」のようなものだった。ある日突然に1通の手紙を受け取った。それは過去に「中学浪人クラス」に通学していた生徒の母親からだった。「娘が他界しました。娘のものを整理しております。当時若葉の『泉』に掲載していただいた娘の作文がどうしても見つかりません。先生のお手元にありましたらお貸せいただけませんか」というものだった。
 その生徒はすでにヤングママになっていた。母親の悲しみに胸が詰まった。十数年も前の「泉」のファイルに2部の残りを見つけて、早速1部をお送りした。それ以降現在も賀状のやり取りが続く。
こうしたやり取りを思い浮かべながら、600号分の「泉」をめくり直した。私はいままでにそれらの掲載した随想に、自分の下手な写真を添えて「銀色の少年」と題して2冊の自費出版をした。「銀色」とは将来そうした髪の色となりたいという銀髪への羨望と、心はいつまでも「少年」でいたいという想いからの命名であった。
 「銀色の少年Ⅱ」から20年ばかりたったが、その間に髪はただの白髪になり、銀髪などにはならなかった。「少年」という想いにはどう考えても近づけない「老人」となったと思う。歳月は残酷である。ただ600号を迎えるにあたり、「銀色の少年Ⅲ」を刊行しておくべきではないかと心のどこかでざわめくものがあった。随想の選択をするために思い切って50年分を読み返した。文字通り「汗顔の至り」というものもある。しかし存外にしっかりと主張しているものもある。よく調べてみるとおおむね50代で書いたものに印象深いものが多かった。そう考えた時に、50代は人生のもっとも活動的な時期になるのではないかという想いを捨てきれなかった。
 今通学中の高校生や中学生の保護者の方は、40代の方が多いのではないか。子育ての忙しさや、会社勤めや家事の多忙に紛れてついつい忘れがちな50代に近づいていらっしゃるのではないか。
 少しばかり前になるが週刊誌で「50歳の幸福」という特集があった。「50歳、自分の人生を取り戻す」という特集もあった。この中にそれぞれの有名無名の人たちの50歳を迎えた体験が書かれていた。面白く読んだ。
 ヒロミというタレントがいる。松本伊代の旦那様である。20代から30代にかけてテレビに出ていない日はなかった。売れっ子だったのである。「生意気だ」とか「飽きた」とか言われて突然仕事が減り始めた。10年間近くテレビでは顔を見なかった。最近再び時折テレビで姿を見る。この10年間の「休み」を彼は「よかった」と評価している。そのヒロミの50歳の感想がちょっと面白かった。「なんかほら、しゃぶしゃぶでいう、ちょっとしゃぶしゃぶした後くらいの感じ」という。こういうことだ。スライスされた肉をさっと湯にくぐらせると、角が取れて「大人」になる感じだという。70歳まで活躍するとしたらあと20年、逆に20年前から現在までと同じだと考えると、あっという間のことだと思える。だからやっておきたいことがいっぱいあると述べている。ヒロミは50歳になって友人たちとの距離感も違ってきたという。距離はぐんと近づいたそうだ。私も思い返すと同感である。学生時代から30年もの歳月は長くて大切だが、何でも言える関係にさらにすすんで行くのもやはり50歳になった頃だろう。
磯崎健一郎という作家がいる。「肝心の子供」で文藝賞を受賞し、さらに「終の住処」で芥川賞を受賞した。彼の経歴がだれよりも変わっていたのは「三井物産」の現職のサラリーマンで、芥川賞受賞時は人事総務部に在職していた。44歳だった。朝5時に起きて出勤前の1時間半を執筆に充てた。しかし1時間半で1行しか書けない日が多くあった。「書きたい、というより書かねばならないという使命感」のようなものに襲われていた。これでは年に何冊も書けないと気付いて、「二足のわらじ」を続けることを止めることに踏み切った。50歳で三井物産を退社した。今は東京工大の講義を週2日受け持っている。一行、一文を緻密に組み立てるためにはコンディションの維持が大切だという。磯崎さんの50歳からの再出発である。磯崎さんはこうも言う。「想像していたより老いることは決して悪くない」。外界と自分を隔てる壁がなくなることにもなる。そうした中で50歳からの日々を真剣に生きる一人の作家の話である。
 今50歳を迎えようとしている人たちは、こんな歌のフレーズを知っておられるだろうか。
 「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」
 あの歌は尾崎豊である。彼が生きていたら50歳。この世代の人たちは尾崎豊と生きてきた。トレンディドラマという言葉も、今50歳前後の人の若き時代のものだ。代表的なものは「東京ラブストーリー」「男女7人夏物語」だが、そうしてみるとバブル期に育った世代であるが、何かとにぎやかな時代でもあった。
 50歳というと私にはもう遠い昔だが、その頃は何を「泉」に書いていたのか。家族というものの在り方を考えた一文で、当時売り出し中の山田太一の脚本のテレビドラマ「岸辺のアルバム」のことを書いていたり、「普商工農の時代」という一文では当時の高校進学の序列に嘆き、これでいいのかと嘆いたりしている。今はそんな序列もなくなった。「拝啓山陰放送様」という一文は「拝啓天皇陛下様」という渥美清の映画をもじつたタイトルで山陰放送への意見を書いた。のちにこのことで山陰放送の社長から意見へのお返しをいただいて恐縮した。「若かったな50歳は」とつくづく思う「泉」50年の感想だ。コピーライターの糸井重里さんは「50なんてピチッピチです」という。これから行くぞ!という気持ちのお父さん、お母さんの50代の日々に声援を送りたい。

 

 

             
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